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第一章 硝子の迷宮

Auteur: 佐薙真琴
last update Date de publication: 2025-11-29 06:09:28

 硝子庭園の扉が開かれた瞬間、私は息を呑んだ。

 内部は想像以上に広大だった。天井までの高さは優に十メートルはあり、全面が透明な硝子で覆われている。しかし単なる温室ではない。庭園は七つの区画に分かれており、それぞれが硝子の壁で仕切られていた。

 各区画は六角形をしており、中央の区画を囲むように六つの区画が配置されている。まるで蜂の巣のような構造だ。あるいは、雪の結晶にも似ている。幾何学的な完璧さが、この空間全体を支配していた。

「硝子の厚さは三寸、特殊な磨き方をしており、光の屈折率を精密に計算してあります」

 久我が説明した。その声には誇らしげな響きがあった。

「各区画には異なる気候帯の有毒植物を配置しました。中央が温帯、周囲に熱帯、亜熱帯、砂漠、高山、湿地、そして寒帯です」

 確かに、硝子の壁越しに様々な植物が見える。紫色の花をつけたトリカブト、赤い実をつけたベラドンナ、奇妙な形のマンドレイク。どれも美しく、そして致命的だ。

 午後の陽光が硝子を通して庭園内に注ぎ込み、植物の葉や花びらを照らしている。しかし、その光は単純に直進しているのではない。硝子の表面で屈折し、複雑な光の模様を作り出している。まるで万華鏡の内部にいるような錯覚を覚えた。

「なぜすべて有毒植物なのですか?」

 椿夫人が尋ねた。その声には、芸術家らしい好奇心と、同時にかすかな恐れが混じっていた。

「美と毒は表裏一体だからです」

 久我の目が妖しく光った。

「最も美しい花が最も危険な毒を持つ。それは自然の真理です。私はその真理を、この硝子庭園で表現したかった。美しいものには必ず危険が伴う。そして危険なものこそ、人を魅了する。この矛盾こそが、生命の本質なのです」

 私たちは中央区画から順に見学を始めた。各区画への入口は一つずつしかなく、すべて厳重に施錠されている。鍵は久我と柊木だけが持っているという。

 中央の温帯区画に入ると、湿った土と植物の匂いが鼻をついた。ここには私もよく知る植物が並んでいた。スズラン、ジギタリス、イチイの木。どれも日本の気候に馴染む植物だが、すべて致死的な毒を持っている。

 柊木が丁寧に説明してくれる。

「この配置には意味があります。ご覧ください、植物は必ず三株ずつ配置されています。そして三角形を描くように植えられている」

 言われてみれば、確かにそうだ。スズランも、ジギタリスも、正確な三角形の頂点に配置されている。その精密さは、単なる園芸的配慮を超えたものを感じさせた。

「これは旦那様のこだわりでして。三という数には特別な力があると」

「ルネサンス期の記憶術ですね」

 芦名博士が頷いた。

「空間に配置された物体の位置関係で情報を記憶する技法。ジョルダーノ・ブルーノなどが用いた。記憶の宮殿と呼ばれる手法です」

「その通りです」

 久我が微笑んだ。その笑みには、何か秘密を抱えた者特有の満足感があった。

「この庭園全体が、一つの記憶の宮殿なのです。植物の配置には暗号が隠されている」

「暗号?」

 私は興味をそそられた。

「ええ。しかしそれは企業秘密というやつです」

 久我は謎めいた笑みを浮かべた。

「いずれ世界に公表するつもりですが、今はまだその時ではない。ただ、皆様のような専門家の目で、この配置を観察していただきたい。そして、もしお気づきのことがあれば、ぜひ教えていただきたいのです」

 私たちは次の区画へと移動した。熱帯区画には、見たこともない植物が繁茂していた。大きな葉を広げたストリキニーネの木、鮮やかな色の花をつけるキョウチクトウの仲間、表面に細かい棘を持つ植物。

「この区画の温度は常に三十度に保たれています」

 柊木が説明する。

「湿度も八十パーセント。東南アジアの熱帯雨林を再現しているのです。温度と湿度の管理には、最新の機械装置を使用しています」

 確かに、区画の隅には複雑な配管が見える。蒸気機関を利用した温度調節装置だろう。この時代、こうした大規模な温室の維持には莫大な費用がかかる。鏡見家の財力と、久我の執念の深さが窺える。

 硝子の壁越しに見る熱帯植物は、まるで別世界のようだった。そして私は気づいたことがある。

「硝子が歪んでいませんか?」

 私の指摘に、久我が満足げに頷いた。

「よくお気づきになりました。硝子の厚さと磨き方を微妙に変えることで、光の屈折率を調整しているのです。そのため、隣の区画から見ると、植物の位置が実際とは異なって見える」

「それは何のために?」

 橘医師が尋ねた。

「美的効果です。角度によって庭園の景色が変わる。万華鏡のような効果を狙っているのです」

 しかし私には、それ以上の意図があるような気がした。光学的トリック。それは何かを隠すためではないのか? あるいは、何かを示すためか?

 亜熱帯区画には、サボテンに似た多肉植物が並んでいた。しかしその表面からは毒液が滲み出ている。触れれば激痛が走り、皮膚が爛れる。

 砂漠区画には、乾燥した土地に適応した植物が生えていた。棘だらけの低木、奇妙な形の塊根植物。どれも水分を体内に溜め込み、同時に強力な毒も蓄えている。

 高山区画には、岩場に生える小さな植物が配置されていた。可憐な花をつけているが、その根には神経毒が含まれている。

 湿地区画には、水生植物が繁茂していた。水面に浮かぶ葉、水中に伸びる根。しかしその美しさの裏には、呼吸困難を引き起こす毒が隠されている。

 そして最後の寒帯区画には、トリカブトやハシリドコロといった、冷涼な気候を好む植物が植えられていた。この区画だけは温度が低く保たれており、入った途端に冷気を感じた。

 すべての区画を見終わった時、私たちは再び中央の温帯区画に戻っていた。そこから六つの区画を見渡すことができる。硝子の屈折により、各区画の植物が微妙に歪んで見える。その効果は確かに美しかった。しかし同時に、どこか不安を掻き立てる。

「いかがでしたか、神坂先生?」

 久我が尋ねた。

「見事な蒐集です」

 私は正直に答えた。

「これほど多様な有毒植物を一箇所に集めるのは、並大抵のことではない。植物学的にも、毒物学的にも、極めて価値の高いコレクションです」

「ありがとうございます」

 久我は満足そうに微笑んだ。

「しかし」

 私は続けた。

「これらの植物の管理は、極めて危険です。特に、これだけ多くの毒物が密集している空間では、万が一の事故が起きれば取り返しがつかない」

「ご心配なく」

 久我は自信に満ちた声で言った。

「各区画は完全に密閉されており、換気システムも独立しています。それに、入室できるのは私と柊木だけ。鍵は厳重に管理しています」

 彼は懐から鍵束を取り出して見せた。七つの鍵が連なっている。それぞれに刻まれた惑星記号が、陽光を受けて鈍く光った。

「柊木も同じものを持っています。万が一、私に何かあった時のために」

 私は柊木を見た。彼は無言で頷いたが、その目には何か言いたげな光があった。しかし彼は何も言わなかった。

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